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レズリーの(モータースポーツ)聖地巡礼

(失われたGP:モンサント・パーク・サーキット、リスボン)

筆者:メイボン・レズリー

翻訳:古橋範雄

スポーツで成功を追い求めることは冷酷だ。トップアスリートたちはトレーニングで自らを追い込み続け、それは世界中どこにいても変わることはない。彼らが偉大な功績をあげた場所はその象徴となる。イェーテボリといえばジョナサン・エドワーズ、リスボンならグラスゴー・セルティック、そしてコンゴはモハメド・アリだ。この果てしないサーカスはその時々のイベントのためのアイデアと出費を伴って築かれる伝説、建築物や建造物を残す。サーカスが次の地に移ればその建造物は彼方に追いやられ静かに崩壊し、名もなきものとなる。興味があるものならば、それらはかつて想像された未来の記憶なのだ。

僕はそんな場所を探すことに魅かれている。南アムステルダムにあるアマチュアサッカーで使われるオリンピックスタジアム、今では観光客に街の光景を見せるだけになった札幌スキージャンプ台の脇にあるチェアリフトのような多くのアトラクションは、時代遅れだと思う。しかしまた、これらは「当時」と「今」-空っぽのメインスタンドやダグアウト-との間の対照によって引き立つと信じている。

そんな理由で、僕は旅行の時にそんな場所を探し求める。それがモータースポーツに関係した場所であるのならなお結構だ。仕事でリスボンに行くことになった時、この街の隠れたモータースポーツの歴史を探訪できることを喜んだ。それは50年以上前に一度だけ開かれ、それ以降行われることのなかったレースのことだ。モンサント・パーク・サーキットはポルトガルの首都の西にあるが、わずかなYouTube動画しかないうえに周辺地図での漠然とした写真がコースのおおまかな位置を示している。そこには記念碑はなく、アデレード市街地コースの「フラインダース」のような名の知れたコーナーもコース脇の朽ち果てたピットタワーもない。

記録では1959年のポルトガルグランプリでサー・スターリング・モスが優勝しており、これがモンサント・パークにおける唯一のF1開催であった(それ以前にノンタイトル戦が2戦開かれている)。この時ポルトガルGPはリスボンとポルトの2つの街で交互に開催していた。前年のポルトでのイベントはより重要なものであった。モスはワールドタイトルに最も近づいたのだが、その挑戦は最終的に破れた。彼はポルトガルGPを制したが、同国人のライバル、マイク・ホーソーンが受けたペナルティは不当である、とレース後に抗議したのだ。抗議は認められ、その結果ホーソーンはわずかな差でモスを上回り1958年のタイトルを獲得した。

1959年シーズンについては特記することはない。サー・スターリングはアメリカ人のマステン・グレゴリーとダン・ガーニーに勝ったが、この年のタイトルはオーストラリア人のジャック・ブラバムが獲得した。その後ポルトガルでのF1は1990年代後半にカレンダーから完全に消えるまでリスボン西郊外に作られたエストリル・サーキットに移った。

運悪く2日間のスケジュールは仕事でいっぱいだったので、僕がモンサント・パーク・サーキットを見る機会は夜明けしかなかった。うまくいけば、ポンバル侯爵広場からバスに飛び乗って巨大なモンサントの森に向かい、1時間半~2時間を探索に費やし、朝食に間に合うようにホテルに戻れる。しかし、問題は外の明るさだ。前日に行った実験(30分ごとにカーテンの隙間から明るさを確認するという非常に高度な科学的アプローチを含む)から、午前7時頃なら出かけるのに十分明るい、とはじき出した。6時にアラームが鳴ると私はベッドから飛び起き、身支度を自己ベスト更新ペースで終え、バスの時刻表とカメラをバッグに詰め込んで、まだ暗いことを確認するためカーテンを開けた。それからの20分(まだベッドにいられたが)は、所在なくネットサーフィンをしたりコーヒーをすすったりしながら明るくなるまで時間をつぶした。

空が深紫からグレーに変わり、僕は6時53分にホテルを出て道を渡った。711番のバスが定刻に着き、僕をリスボンの西へ連れ去った。大通りを進むと間もなく、エンジンは全開となり今日最初の太陽の明りが窓を差した。向かった先は広い谷の間を横断するあまたの道を飲み込むうねった緑の丘であった。この、葉っぱでおおわれた丘の一帯がすでに、官能的な街の緑地であるモンサント・パークそのものだ。数十キロ平方メートルにわたって広がっているこの公園は、落葉樹と針葉樹の森にゆるくおおわれており、多くのレクリエーション活動を提供する。より起伏に富んだ植物の多いハイランド・パークを考えてもらうといい。

まだ時間通りに走るバスは幹線を離れ、小さなランドアバウトの隅で僕を降ろし、森の中へ消えて行った。帰りのバスの時間を確認した僕は高速道路上の橋を渡る。橋の終端にある次のランドアバウトに向かうために僕はリスボン・サーキットのバックストレートだったところを歩かなければならなかった。ガーニー・モス・そしてブラバムのようにしたい人は、横断歩道に突っ込むポルトガルのタクシーよりほんの少しレーシング・ライン上の障害物に気を付ける必要がある。

早朝の公園内のサーキットであるにもかかわらず、ここには1959年8月の心地よさを感じさせるような道の緊張感を思い浮かべさせる静寂はない。リスボン中心部に向かう主要道A5が森から見え、車やバスが早朝の乗客を乗せて市街へと轟音を立てて過ぎていく。公園内の道も静かではないが、公道を走る車の騒音の中にも早朝の鳥のさえずりが常に聞こえてくる。どのくらいの人が自分の車で仕事に向かう道路で行われたレースについて考えているかなど僕にはわからない。たとえここでGPが行われたと知っていたとしても。

緩く右にカーブしたバックストレートの内側の泥だらけの道を追ってみる。時間が許せば700メートル先のレイク・ヘアピンまで歩いて行くつもりだった。道は1950年代から何回かは舗装が直されているのはわかるが、道端の排水溝(側溝)は、ルーアンのようにサーキットの一部で舗装が途切れているところで見られる古い丸石で造られたままだった。コーナー外側の地面の下に巣食う恐ろしい小石柱はヘアピンに突っ込むドライバーの心を研ぎ澄ませたに違いない。

リスボンに来る前の宿題として、僕は1959年のレース・ビデオを数本見た。それは僕が泊まっているホテルの屋上から見る現在の景色とは似ても似つかない光景から始まっていた。息苦しい夏の暑さとは異なり、リスボンでのレースは午後遅くから始まり夕暮れまで続いた。大きなファクトリー・チームが苦しむことを証明するのは珍しいことではない。アストン・マーティンのチーム-当時ル・マン耐久レースで成功を収めていたことで知られる-は、ポルトガルの日差しの中もがいていた。エディンバラ大学モータースポーツクラブのフェローであったスコットランド人のロン・フロックハートが参加しており、BRMに乗って7位で完走した。当時のビッグネームたちの多く-グラハムとフィル・ヒルはレース序盤の衝突で、ブラバムはスペクタクルなクラッシュで-は、レースから一掃されていた。サー・スターリングはポールポジションからスタートし、ファステストラップを獲り、完全勝利で週末を支配した。

1959年、クーパー・クライマックスに乗るモスは2分を少し超えるタイムでポールを獲得している。モンサント・サーキットは現在のF1サーキットと距離の上では比べられる。1周5.4kmで9つのコーナー(ほとんどが中程度)だとしても、これは速いタイムである。現在のデザイナーが15のタイトコーナーを詰め込みたがることを考えに入れても、セバスティアン・ベッテルはレッドブルのマシンでモンサントを1分ちょっとでラップすると推定する。しかし、急に落ち込むコーナーのアウトサイドやインサイドの石壁のせいで彼はその妙技でオーバーテイクを急いですることはないだろう。

5分間の良い散歩の後、長い右コーナーの終端にたどり着いた。レイク・ヘアピンに到着だ。「ヘアピン」とは言ったものの、平日の朝の通勤路であり、反対側は公園の中心に向かう道だ。公園のこの部分を通る最も大きい道であり、GPサーキットのトラックとして分岐する部分でもある。主要道は市街に向けて戻り、側道は森の奥深くに向かう。反対側の側道50メートルほどで主要道に吸収され、両側の道は合流し、芝と異国風の木で覆われた大きな緑のトライアングルを作る。その終わりで2本の小道が合流し丘にのぼり、森に向かう。GP開催時、ヘアピンは本線と側道は藁の梱で仕切られており、レースカーはカーブと登り道の間を最も短いと考えられるルートで通ることになっていた。

もしあなたがサーキットをたどって公園の中心部に行こうとしても、それはできない。緑のトライアングルの終わりの路面に柱が立っているからだ。このようにして側道は事実上行き止まる。コースをたどって詳細に観察する絶好の場所となるわけだ。路面が1959年当時から変化していようと、なぜここがチャレンジするに足る道と考えられたかを理解するのは簡単だ。コーナー内側の排水路は目の粗い丸石で作られており、マンホールが盛り上がっている部分が時々ある。道自体は内側に傾斜しており、嫌がらせに見える一連の真っ赤な消火栓はコーナーのアウトサイドでミスを待ち構えている。僕はコースに走って戻ろうとして尻もちをついてしまったが、そのことで路面は実質的にグリップしないことがわかった。

尾骨が折れていないことを確認した僕は、自分の靴底が役立たずだったことでコーナーをドライバー視点で見る機会を与えられたことを知った。ズボンを破かないように気を付けながら立ち上がろうとする間、僕の頭は地上1メートル以下-大まかに言えばF1カーと同じくらいの高さだ-にあった。薄いヘルメットとゴーグルだけでコーナーを60マイル/h(約96km/h)で駆け抜けようとする者にとっては、まさに恐怖の光景だろう。グレーの、スリッパリーなアスファルトだけが険しいバンクとインサイドの低い壁から君を支えているのだ。ここには現在のF1サーキットで見られるターマックのランオフエリアはなく、ラリーステージに似ており、ミスをすれば森に突っ込んでしまう。過去のモータースポーツの危険さと、よりモダンなドライビングスタイルを持つ者がどれくらい生き残れるかを考えた僕は混乱し始めた。ブラインドコーナーの中ほどでしゃがみこんでおり、いつでも動けることを思い出した僕は素早く立ち上がり、バンクの上に急いだ。

太陽がゆっくりと空に昇り、道路は時が経つほどに込み合ってきて、止むことのないラッシュアワーの高速道路の騒音が木々の向こうから聞こえてきた。車通りがわずかに途切れた時、僕はターマックの中ほどにあるオイル溜りに日差しが反射しているのに気付いた。スク―ビー・ドゥーみたいなゴーストカーが夜中にオイルをぶちまけたかな、などという不真面目な想像が一瞬よぎったが、そんな小ネタを作品に仕立て上げる前にオイルの原因にたどり着いた。バスがコーナーのバス停で待っていたのだ。

モンサント・パーク・サーキットをあらゆる面でまとめると、ここでかつて偉大なレーシングドライバーたちが栄光のために戦ったことを思わせる特別なものは何もなかった-少なくとも何も見なかった。地震によって破壊され、2つの大陸の窓口となり、今日われわれが知るように世界地図の作成に重要な役割を演じた都市にとって2時間の自動車レースというのは実際のところ非常に些細なことなのだ。

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