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What I'm Doing

The secret of change is to focus all of your energy. Not on fighting the old, but building the new” – Socrates

These are the areas where I am focusing my energy.

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Memento Mori

A call to prayer

What happens when we hear “the call to prayer”?

In North Africa, the call to prayer sounds over the loudspeaker of every mosque five times a day.  195 more words

Musings

0762:カエルの子は蛙?で良いの?

世襲制だったり、身分制度だったり、選択的だったり、望んでいたり、望まなかったり、選択の余地はなかったり・・・。だから、無限の選択肢がありそうな社会に於いては、追従という選択肢の影響が大きいのだろうか?
人の将来の選択肢(職業選択の自由とか?)が一応保障されているのは、国際的に比較しても誠に稀有で、幸福な状態なのかも知れないけれども、ではその自由や保障という文字が持つ印象ほど、実際の実態は整っているのか?というと、必ずしもそうとは限らないらしい。ましてや、格差・レールという言葉を用いたとしたら、事情によっては、一体どちらがより良い社会なのかとかが判別困難にもなったりする。

社会全体としては、あらゆる挑戦に関して(開拓者精神?)は絶賛大歓迎されるものの、上手く行かなかった際のセーフティーネットは皆無か、無いに等しい状況だったりもする。そうなると、現場の実態は形骸化しているという方が正確で、むしろ事実上のハリボテに近く、バランスが悪いのは否めない様な気がする。
しかし、人は、本能的に常に強烈に明るい側を見ていたいのだろう。やはり、ダークサイドには、特定の強烈な意図のある時以外は見ようともしないし、見たとしても見ぬ振りなのだろう。その見ぬ振りは強烈で、その手法としては、自己責任という何とも曖昧な概念を持ってきて、さも正論の様に構築して、見ぬ振りをして蓋をする。実際は、その真の意味すら知りもしない時ばかりだったりもするのに・・・。

反発する者もあれば、従順に受け継ぐ者もいる。
そこに至るまでの筆舌には尽くせぬ複雑な力関係が存在したり、誠に部外者には理解し難い何かしらの力が働いていたりするのかも知れない。部外者からすると、世襲とかの環境に関しては、しっかりとレールがあるんだから何を拒絶しているのだろう。実に贅沢な・・・とか思う人も居るのかも知れないけれども、実際にその環境下に暮らす本人達にとっては、様々な思惑が交錯していて、例えば、外部の血を入れると刷新されるとか、ただただ混乱を招くとか、内部だけだと疲弊する・・・とか何とかで、常に話題が持ちきりなのだろうかと。

親の背中を見て子は育つ・反面教師として・・・憧れ・嫌悪・・・。
自らが叶わなかった夢を、後進に託すとかいうのは、余程整った環境で無い限り、原則的に悲劇の香りが漂っている。トップダウンの命令では、受ける側の精神衛生に何かしらの悪影響が発生する様な気もしないでもない。(殊更、余計なお世話か)

不可思議なのは、重要な決断をする際の先代への傾倒だ。
適切な言葉が見つからないけれども、例えば、アルコール依存症の保護者への嫌悪を抱いていたにも関わらず、自らのパートナーは同じ様なアルコール依存症か、類似の依存症者であったり、虐待を受けて育った子供が今度は自らが親になった時に、同じ様な虐待をしているとか・・・。そんな傾向もあるっちゃあるらしい。

この辺の連鎖的な事実は、専門家の出番とは思うけれども、確かに外見の印象だけをみると、やはりある程度の傾向があるのかも知れないなぐらいは思ったりもする。瓢箪から駒は、そうそうある物じゃ無いのかも知れない。

似た者同士・類友とかの影響の大きさは、どこもかしこもで言われるけれども、選択の自由があるならば、自らが嫌悪した状態に関しては、原則的に避けたいと思うのが当然なのだろうとは思うのだけれども、実際は結構な部分である意味、善悪入り混じった伝統は受け継がれたりしているのかも知れない。実に不思議なものだったりする。
経済格差とかの、”格差”とかいってしまうと、途端に嫉妬の類と判別されるのだけれども、貧困家庭の伝統は、中々覆す事は困難であり、裕福な家庭の伝統は、やはり中々覆す事は困難であったりもする。まるで、それは慣性の如く、何かしらの力が働いているのかも知れない・・・等と嫉妬も起きてしまったりもする。

社会のピラミッド構造というのは、様々な場面で利用され、大体が社会構造の力関係の格差を示す事によく利用されるらしい。また、負担割合とかの図式を見ると、同じく社会全体の構造に、当事者として何だか複雑な気持ちになったりもする。

先代の築いてきた信頼の証が、次世代でも受け継がれ、またその必要性としての存在を求められ続けるのであれば、その代々の継承は、むしろ致し方無いのかも知れない。しかし、時代が変わり、それらのギャップが社会構成に適合しなくなったりすると、立派な伝統も、その肩身の狭さに途端に衰退してしまうのかも知れない。

Better Life?

0761:子供達は何から学ぶのか

数限りない物事から学ぶのだろうとは思うのだけれども・・・。
人は、どのくらいから、必要な情報と雑情報とを自らの選択的により分けられる様になるのだろうか。

大人達は、実に正確な判断が出来る・・・本当だろうか。それは、どこかしら無理が生じてはいないだろうか。子供にとっては教育は大切らしい。経験上から精査された思考形態を大人から学ぶのも大切なのだけれども、子供達もまた、独自の教育ネットワークを保持しているのでは無かろうかと。
子供同士で学びあう現場に、大人がいちいち介入して行くのは、果たして本当に重要な事なのだろうか。自分達のルールを自分達で即席で作り、それに基づいて、脆弱ながらも、自らで合格ラインと不合格ラインを取り決め、原則的に全会一致の末、議事を進行していく。それらの程度は、文字通り子供じみていてはいて、不安定で、真に危うい物なのかも知れないが、全体を俯瞰した際の学習の効果としては、大人のそれと似ている様なある程度の整合性が成立していたりするのでは無かろうかと。
放任では、無責任過ぎるけれども、取り返しの付かない事になる前の、本当に肝を冷やす位(古いか・・・)の所までを容認するのが、教育としての理想だったりするのだろうかと。(知らんけど)
例えば・・・ベッドから落ちそうになるのを、早々に修正してしまうよりも、一度落ちてみて、その床にぶつかる前に、両手で支えて、元の位置に戻すとか・・・(一歩間違えば、トラウマに為り兼ねないか・・・)

子供の自立(自律?)方法の模索を阻害しているのは、単に前後不覚な大人達なのでは無かろうかと。放任やネグレクトとの線引きは非常に困難を極めるのかも知れないけれど、その絶妙な微妙な線を、しっかりと見据えているのが大人としての自覚だったりするのでは無かろうかと。(自戒)

Better Life?

0759:人口過疎地と人口密集地

限界集落っていう調査結果・・・。
様々な手法により、どうにか人口(若い世代)に暮らしてもらいたい!

実際に、地域が高齢者ばかりになったら地域の生活はどう変化するのだろうか。そして、どの様な不都合が生じるのだろうか。
って事は、さっぱり分からないのだけれども、生活に何かしらの不都合を感じる様な地域であれば、やはり人は遠ざかる様な気がするし、逆に、何かにつけ便利であるならば、人は集まるのだろうか。田舎は、不便?都心は、便利?

人一人の生活に、ありとあらゆる条件が必要とするならば、やはり人が生活する地域には、最低限度の社会インフラが整備されている必要があるのかも知れない。だとすると、電気・ガス・水道・食料・医療・衣料・土地・建物・娯楽・仕事・出会い・補修・流通・・・。(分からないけれども)それらの機会が著しく低下し、しかも先細りだとすると、将来の選択肢を無限に希望する人からすれば、その環境に暮らすことを選択するのは、困難なのかも知れない。それが発展・維持・管理されるのは、やはり需要が大きい地域が優先されるのは、経済的にも不思議では無く、投資の規模に比例して、回収が少なくなるのであれば、余程の理由が無ければ、時の経過と共に様々に問題が生じてくるのは自明の理なのかも知れない。(ちょと脱線)

しかし、人が集まるところは、絶対的に人の生活に必要な事がそろっているのか?
実は、必ずしもそうとは限らないというのが、人間の集団的社会生活?の醍醐味であって、利便性が向上する事と、諸問題が生じしてくるのは、まさに、工業製品であれば、規定に合わない不良品が数パーセントの確立で発生するのと同じく、(同じか?)過疎であれ、密集地であれ、変わらないのかも知れない。

問い:人が過疎地から都会に出るのは何故か?
問い:人が都会から過疎地へ出るのは何故か?

それらの個々人の理由が、その決断を大きく明確に物語っているのでは無いのだろうか。

人は、快適さを求め、その快適さが、個々人によって異なる。それ故、人生を左右する程の決断に結びついていたりするのだろうけれども、その部分をしっかり把握出来た時、また、保障出来た時に、それらの過疎と密集という新たな問題は、解決の糸口を見出すことになるのではなかろうかと。

(知らんけど)

Better Life?

0756:60年以上も昔は、許されなかった話

誰が許さなかったのか、宗教とか?
昔は風習などで、代々受け継がれて?行われていた様な事が、後の教育や医療の発達により衰退・否定される様になった事って言うのは山ほどあるらしいのだけれども、そんな事実を現代人はどの様に認識すれば良いのだろうかと。

例えば、性別に関する本人の認識と社会的認識が異なる場合とかは、今も昔も当然の様にあったと思われる訳で、それが何かしらの社会的圧力により抑圧されてしまったりしてきた歴史は、一体何を意味していたのだろうとか思ったりもする。

人は、一般的に理解が困難な現象に関して奇異の目を向ける事があるのだけれども、そうであっても、そうでなくても、事実として認められる物事に関しては、認める・認めないも無いのでは無かろうかと思ったりもする。

人間社会で生きる上で、その個性により殊更困難な生活を強いられていたりする場合は、国家制度や、地域格差や、人種や、病とか、実に様々にあるのだろうと思われるけれども、不思議に思えるのは、その優先順位というか、必要性がどうもバラバラである様な気がしないでも無いっていう事だったりする。
というのも、飢餓と肥満という単純な分け方をすると、それらが何かしらの病とかで無い以上、実に命の危険に直結している事例だったりもする。とするならば、飢餓は栄養不足であって、肥満が栄養過多であるとするならば、それらの格差は、実にバランスが悪い事になりはしないだろうか。

世に溢れる様々な不思議(飽食の時代とか)を、一概に押しなべて比較したりするのは、大抵前後不覚に陥るのが落ちなのだけれども、「生きたいとか」、「極普通の人権を認めてほしいだけなんです」とかの主張と裏腹に思える、ただの興奮状態を作り出すだけのドラッグレースとかの対比は、何だろう?この盛大なエネルギーの無駄遣いは?っていう感想を持つ事になったりもしなくも無いっていう・・・。

Better Life?